アンチヒーロー

  • タイトル:アンチヒーロー

あらすじ:従来の「リーガルドラマ」の枠を超え、長谷川博己演じるアンチヒーローを通して、観客に「正義とは何か?」「悪と見なされることは本当に悪いことなのか?」という問いを投げかける。「電車に乗り遅れる」「今朝、持ち物を忘れる」といった些細な日常の出来事を通して、次々と常識を覆していく、目まぐるしいスピード感で展開していく。こうした単純な状況から正義と悪が入れ替わる。そして、バタフライ効果のように善人が悪人になっていく、前代未聞の逆転パラドックス・エンターテインメント・ストーリーをお届けする。

ルールは守るものだ、と思っている。
少なくとも、表向きはそう言っておいた方が無難だし、
社会の中でうまくやっていくには、ルールに従うのが正解とされている。

それは別に間違いじゃない。
交通ルールも、契約も、法律も、守られなければ社会は成り立たない。
「ルールを守れ」という言葉には、それなりの重さがある。

目次

でも、ルールを「盾」にした瞬間、何かが死ぬ

ドラマ「アンチヒーロー」を観ていて、ずっと胸の奥がざわついていた。
法律を使いこなし、制度の隙間をくぐり抜け、
「正当な権利」を行使しながら人を追い詰めていく人間たちの姿。

彼らは何も間違っていない。
ルール上は、完全に正しい。
それなのに、画面の前でなんとも言えない気持ち悪さが残る。

「どうか、わたしたちが司法に信頼と誇りを取り戻せますように」
— ドラマ「アンチヒーロー」桃瀬のセリフ

この言葉に感動したのは、ルールの前に倫理があった時代への、
どこか切ない懐かしさのようなものを感じたからかもしれない。

日本には、ルールより先に倫理があった

ルールは「守らなければならない」というのは、どちらかというと西洋的な発想だ。
日本の共同体には、もともと別の論理があったように思う。

ルールを守るのは、義務だからじゃなく、
そうした方が村がうまくいくから、みんなが気持ちよくいられるから、という感覚。

ルールの前に、関係性があった。
倫理が先にあって、ルールはその後からついてくるものだった。
それがいつの間にか逆転して、
ルールを盾に、関係性を壊すことが「正当な行為」になっている。

「損したくない」という正直な動機

そんなことを考えながら、自分の中を覗いてみると、
わりとすぐに恥ずかしい答えが出てきた。

自分だって、やる。

お向かいの方が、側溝を飛び越えて道路にはみ出して駐車するのが続いたとき、
どう文句を言ってやろうかと、しばらく画策していた。
実際には何も言わなかったけれど、
頭の中では「正当な権利」をフル活用した言い訳を、せっせと組み立てていた。

そのとき動いていたのは、正義感でも倫理観でもなく、
「損したくない」という、かなり素直な欲求だった。

正しいことをしようとしていた、はずなのに、後味が悪い。
その感覚に名前をつけるなら、「何もしてないのに、嫌な自分が残った」だろうか。
ルールで相手を封じようとした瞬間、
何か大切なものを手放しかけていたのかもしれない。

でも、ルールなしでは生きていけない現実もある

とはいえ、「倫理だけで生きていけ」というのは、きれいごとすぎる。
悪意のある相手に、善意だけで立ち向かうのは無防備だし、
ルールという客観的な基準がなければ、力のある者が得をするだけだ。

「ルールを逆手にとる」人間が増えたとして、
それに対抗するためにルールを使うことは、必ずしも間違いじゃない。
桃瀬だって、法律の中で戦っていた。
問題は、ルールを使うことじゃなくて、使うときの「動機」なのかもしれない。

動機が、全部を変える

同じ「正当な権利の行使」でも、
倫理から出発したものと、損得から出発したものでは、どこかが違う。
結果は同じに見えても、その人の中に残るものが、まるで違う。

ルールを使うとき、自分は何を守ろうとしているのか。
関係性か、面子か、正義か、それとも「損したくない」という素直な欲か。
その問いから逃げていると、気づかないうちに、
自分が嫌いなはずの「あかんやつ」に近づいていくのかもしれない。

分からないまま、そこに立っている。

自分への切実な問い

自分が「正当な権利」を持ち出すとき、
それは誰かとの関係を守るためか、
それとも、ただ損したくないだけか。

答えがすぐに出なくても、問い続けることに意味があると思っている。
それが、「あかんやつ」にならないための、自分なりのブレーキなのかもしれない。

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