神の手

  • タイトル:神の手
  • 著者名:久坂部羊
  • 出版社:幻冬舎文庫

あらすじ:21歳の末期がん患者・古林章太郎の激痛を取り除くため外科医の白川は最後の手段として安楽死を選んだ。だが章太郎の母・康代はそれを告発した。殺人か過失致死か。状況は限りなく不利だったが謎の圧力で白川は不起訴に。背後に蠢く安楽死法制化の画策と世論誘導。マスコミを使って阻止を図る康代。白川は困惑しつつも激流に呑み込まれていく。

「この子のために」という言葉は、親にとってほとんど呪文のようなものだと思う。

疑う必要のない動機。反論のしようのない愛情。子どものことを考えているなら、それはいつだって正しい行動のはずだ。

少なくとも、そう信じていた。


目次

目的は、いつのまにかすり替わる

久坂部羊の『神の手』を読みながら、ずっと落ち着かない気持ちがあった。

医療の世界を動かす人たちが、最初は確かに「患者を救いたい」という志を持っていた。それがいつのまにか、政治や利権や自己保身と混ざり合って、本来の目的を見失っていく。

悪人が出てくる話、というより、善意が腐っていく話だ。

読みながら思ったのは「ひどい話だ」ではなく、「これは他人事ではないかもしれない」という感覚だった。


「この子のため」の中身を、覗いてみた

習い事を始めて一ヶ月ほど経つと、子どもは飽きたそぶりを見せることがある。

そのとき、「もっと向上心を持て」「自主練しろ」という言葉が、自然と口をついて出てくる。子どもはその場では乗り気になる。でも続かない。

あれは、言いすぎて届かなかったんだと思う。

なぜ続けてほしかったのか。本当のところを正直に掘り下げてみると、少し気まずい答えが出てきた。

「途中でやめたら、みっともない」という気持ちが、確かにあった。


「この子のため」は、本当にそうだったか

自分の子が犯罪者になったとか、自殺したなんてことは言いたくない。

それは正直な気持ちだ。親なら誰でも、そう思うだろう。

でも、その気持ちと「この子の幸せを願っている」という気持ちは、本当に同じ方向を向いているのだろうか。

「迷惑をかけない子に育ってほしい」は、子どものためか。それとも、自分が恥をかきたくないためか。

どちらかひとつを選ばなければいけないわけじゃない。でも、混ざっていることには、気づいていた方がいい気がする。


子どもには、伝わっているかもしれない

もし子どもが「この人は自分のためではなく、自分の体裁のために言っている」と感じていたとしたら。

言葉はどれだけ正しくても、届かない。

「向上心を持て」という言葉の裏に、「やめたら恥ずかしい」という感情が透けて見えていたとしたら、子どもは小さな大人の顔を見ている。

なんで大人はこんなことに必死になっているんだろう、と。


それでも、否定しきれない

「子どものために」という動機が、実は自分の体裁のためだったとしても、それが完全に間違いだとは言い切れない。

世間体を気にすることは、社会の中で生きていくための感覚でもある。恥を知ることは、悪いことではない。

ただ、それを「この子のため」という言葉で包んで、自分自身にも嘘をつき続けているとしたら。

その嘘は、いつか子どもに見抜かれる。『神の手』の中の人たちが、最初の志を見失っていったように。

目的のすり替えは、医療の世界だけで起きていることではないのかもしれない。


本当の動機を、問い続けること

「この子のため」という言葉を使うとき、少しだけ立ち止まるようになった。

本当に、そうか。

それとも、「自分のため」を「この子のため」という言葉に乗せていないか。

完全に純粋な動機なんて、たぶん存在しない。混ざっていて当然だ。でも、混ざっていることに気づかないまま突き進むことと、気づきながら揺れることは、ずいぶん違う気がしている。

子どもに伝えたい本当のことが、いつかちゃんと届くとしたら。それは言葉の正しさより、動機の誠実さによるのではないか、と。

まだ、答えは出ていない。


自分への切実な問い

「この子のため」と口にするとき、自分は本当に子どもの顔を見ているか。それとも、他人の目を気にしている自分の顔を、子どもに見せていないか。

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