
- タイトル:傲慢と善良
- 著者名:辻村深月
- 出版社:朝日新聞出版
あらすじ:婚約者・坂庭真実が姿を消した。その居場所を探すため、西澤架は、彼女の「過去」と向き合うことになる。「恋愛だけでなく生きていくうえでのあらゆる悩みに答えてくれる物語」と読者から圧倒的な支持を得た作品が遂に文庫化。
「善良」であることは、本当に優しさなのか
人は誰でも、自分のことを「そこまで悪い人間ではない」と思っている。
あからさまに誰かを傷つけようとしていないし、むしろ相手のことを思って行動しているつもりだ。
それが普通の感覚で、それが「善良」であることの証明だと、なんとなく信じている。
でも本当にそうだろうか。
善良であることと、傲慢であることは、案外すぐ隣に立っている。
むしろ、善良だという確信が強ければ強いほど、その人は気づかないまま傲慢になっていくのかもしれない。
「あの人は駄目」という基準の正体
辻村深月の『傲慢と善良』を読んで、最初に引っかかったのはそこだった。
登場人物たちは、誰も自分を悪人だとは思っていない。
むしろ、娘のことを思って、子どものことを思って、相手のためを思って動いている。
でも「高卒の人とは結婚させたくない」という親の言葉は、どこから来るのか。
学歴や職業で人を選別するその基準は、「相手のため」という名目をまとっているが、
実態は「自分の価値観が正しい」という確信から生まれている。
それは傲慢ではないのか、と問われると、難しい。
本人にはその気がないからだ。
善意の傲慢、というものがある。
住所で人を測っていた自分
読みながら、ふと思い出したことがある。
以前は大阪市内に住んでいて、どこに住んでいるかを聞かれるたびに、それなりの手応えがあった。
郊外に引っ越してからは、同じ質問に「大阪の方です」とぼかすようになった。
その「ぼかし」に気づいたとき、少し嫌な感じがした。
なぜぼかすのかといえば、郊外の地名が相手に伝わらないからではなく、
伝わったときの反応が怖いからだ、と正直に言えば、そういうことになる。
それはつまり、自分もずっと「住所で人を測っていた」ということだ。
都心に住む自分を、どこかで「ちょっとまし」だと思っていた。
そのことに、引っ越してはじめて気がついた。
「あなたのために」という言葉の重さ
パートナーが管理栄養士で、食事のことに詳しい。
それ自体はすごいことだし、知識があることは本当に助かる場面も多い。
でも食卓で「これは食べた方がいい」「これはあかん」が続くと、食事がだんだん教室に変わっていく。
本人は善意でやっている。
家族の健康を思っているし、知識を活かしたいという気持ちも本物だ。
でも相手がそれを「また始まった」と感じているとしたら、善意はその時点で空振りしている。
やがて子どもたちは、その話を聞き流すようになっていった。
聞かなくなったのではなく、聞き方を変えたのだ。
そして食卓で、パートナーだけが話し続けている時間が生まれた。
誰かを孤立させようとして、孤立させた人間はいない。
それが少し怖いところだと思う。
「言っても意味がない」と気づいたあとに
何度か伝えたことはある。
でも「自分がいいと思ってやっていること」を否定されれば、誰だって傷つく。
そこでまた言い合いになることの消耗が、やがて「言っても意味がない」という諦めになっていく。
それはそれで正しい判断かもしれない。
相手が自分で気づくしかない問題というのは、確かにある。
押しつけが問題なのに、そこに「やめて」を押しつけるのも、結局は同じ構図だ。
かといって、黙って見ているのも、何かを諦めることに近い。
正解がないまま、ただ時間が過ぎていく。
それがパートナーシップの、どうにも解けない部分のような気がしている。
善良と傲慢は、同じ場所に生えている
結局この小説が問いかけているのは、善悪の話ではないと思う。
「自分はちゃんとやっている」という確信が、どれだけ他者の感覚を見えなくさせるか、という話だ。
親世代と子世代がうまく噛み合わない理由も、きっとそこにある。
それぞれが「正しい形」を持っていて、その形がすれ違っているだけで、
どちらも相手を傷つけようとはしていない。
でもだからこそ、傷つく。
悪意のない傷の方が、修復に時間がかかることがある。
善良であろうとすることをやめるつもりはない。
でも、善良だという確信を手放すことくらいは、できるかもしれない。
それだけで、少し風通しが変わる気がしている。
傲慢な態度と付き合っていくポイントは一体なんだろうか?
わたしは今、誰かのために「いいこと」をしているつもりで、
その人をひとりにしていないだろうか。





