
- タイトル:禁忌の子 〈医師・城崎響介のケースファイル〉
- 著者名:山口 未桜
- 出版社:東京創元社
あらすじ:救急医・武田の元に搬送されてきた、一体の溺死体。その身元不明の遺体「キュウキュウ十二」は、なんと武田と瓜二つであった。彼はなぜ死んだのか、そして自身との関係は何なのか、武田は旧友で医師の城崎と共に調査を始める。しかし鍵を握る人物に会おうとした矢先、相手が密室内で死体となって発見されてしまう。自らのルーツを辿った先にある、思いもよらぬ真相とは――。過去と現在が交錯する、医療×本格ミステリ!
「おめでとう」と言わなければならない空気
不妊治療は、すばらしいことだ。
医療の進歩によって、子供を望む人が子供を授かれる。
それに異を唱えることは、野暮であり、無粋であり、場合によっては残酷でさえある。
だから、誰もが「おめでとう」と言う。
言わなければならない空気が、そこにある。
その空気に、わたしはずっと、うっすらとした気持ち悪さを感じていた。
子供の声が、どこにもない
この小説を読みながら、あることに気づいた。
不妊治療をめぐる議論の中に、子供の声が存在しない。
親が望んだかどうか、社会が認めるかどうか、医療が可能かどうか。
あらゆる問いが、大人の側から立てられている。
生まれてくるその子が「望んでいたか」を、誰も問わない。
問う術が、そもそもない。
卵子を取り出して、体の外で培養して、また体に戻す。
その行為に、わたしは神への畏怖に近いものを感じた。
自然の摂理を、人間が意志の力で越えようとしている。
それへの怒りと、戸惑いが、半分ずつ、混ざり合っていた。
愛があれば、いいのか
もちろん、反論はある。
不妊治療を経て生まれた子供が、深く愛されて育っている家族がいる。
自然妊娠で生まれても、愛されずに育つ子供もいる。
愛があれば、手段は問わないのではないか。
それは、もっともだと思う。
まったく、もっともだ。
2人が決めたことに、外から口を出すのは余計なお世話かもしれない。
そう思おうとした。
でも、「思おうとした」という事実が残った。
納得したのではなく、納得しようとしていた。
その「もやっ」とした感覚が、消えなかった。
「おめでとう」の外側にあるもの
わたしが気持ち悪いのは、不妊治療そのものではないのかもしれない。
「おめでとう」と言わなければならない空気、その同調圧力の中に、
子供の不在が、当然のように織り込まれていることへの違和感だ。
生まれてきたその子が、大迷惑だったとしたら?
「産んでくれなければよかった」と感じる日が来たとしたら?
そこまで考えて、「おめでとう」と言っているのだろうか。
そこまで考えて、治療を選んでいるのだろうか。
もちろん、それは自然妊娠でも同じ問いだ。
子供を持つすべての行為に向けられるべき問いかもしれない。
だから不妊治療だけを責める気は、まったくない。
ただ、あえて介入してまで命を作ろうとするとき、
その問いはより重く、より切実になるのではないかと、感じてしまう。
治療は、誰のためにあるのか
「不妊治療は子供のためにするもの」という言葉がある。
でも、まだ存在しない子供のために治療をする、という論理は、
どこか奇妙なねじれを持っている。
治療をするのは、親だ。
欲しいのも、親だ。
その欲望を、わたしは否定したいわけじゃない。
子供を愛したいという気持ちを、悪いとも思わない。
ただ、「愛してあげるから、いいのか」という問いが、頭を離れない。
愛することは、生まれてくることへの同意にはならない。
それでも、人間はずっとそうやって子供を産んできた。
自然妊娠だって、子供に聞いてから産んだわけじゃない。
わかってる。
わかってるけど、それでも、もやが晴れない。
もし血の繋がらない子を育てることになったとき、
死ぬまで愛し続けられるだろうか。
わたしは、自分の子でさえ、満足に愛せているか自信がない。
それでも、もし血の繋がらない子を育てることになったとき、
死ぬまで愛し続けられるだろうか。
血の繋がりに、本当は何かを委ねていないか。
「愛せる」という自信のなさを、血縁という自動性で補っていないか。
「おめでとう」と言えない自分の中にある、その正体は何なのだろう。





